1. HOME
  2. ブログ
  3. 間脳下垂体腫瘍とのかかわり

間脳下垂体腫瘍とのかかわり

 私は間脳下垂体疾患の治療に従事して30年以上になります。はじめて下垂体腫瘍の患者さんを担当したのは、非常に厳しい教育で知られる三井記念病院の研修医時代でした。このころの三井には有名な脳外科医の先輩たちが数多く在籍しておりましたが(いまではそのころ在籍されていた先生方の多くは、どこかの教授になられています)、週に2~3例あった下垂体の患者さんが、なぜか割り振りの際に、私の担当になる機会が多くありました。当時の三井記念病院で修業を積んだおかげで、その後は顔面けいれん、三叉神経痛、頭蓋底腫瘍、難度の高い未破裂動脈瘤などが私の専門分野になりましたが(刷り込み現象です)、その中でもダントツに多かったのが下垂体腺腫、そのころは病名ではなくハーディーと呼ばれており、ハーディーは大橋が担当、と呼ばれるようになりました。その後、いろいろな病院に派遣されましたが、なぜか間脳下垂体疾患の患者さんの受け持ちになることが多く、自然と私の専門分野になっていきました。
 そうした中で、当然、いろいろなトラブルにも見舞われました。わたしの若い時分は内分泌科の先生とのつながりもあまりなく、脳外科医がホルモンの検査や補充を行っており、電解質異常やホルモン欠乏による全身状態悪化など、今ではまずお目にかからないようなホルモン異常の患者さんが多く見られました。また、大学病院に籍を置いていた時代には、上司の先生の合併症盛りだくさんの手術と、病棟長のおかしな術後管理にほとほと嫌気がさしておりました。当時の大学病院の医局は、病棟長にたてついて術後の指示を訂正するなどもってのほかの時代でした。
 少し腐りかけていた頃に、たまたましばらくぶりに出席した間脳下垂体腫瘍学会でハンブルクのリューデック先生のご講演をお聞きしました。すこし映りの悪い手術ビデオでしたが、出血のほとんどない術野で、専用の摘出鑷子とイリゲーションを用いて丁寧に鞍内を剥離する手術は鳥肌が出るほど衝撃でした。そのころは現在鳥取大学脳神経外科の主任教授になられた黒崎雅道先生がハンブルクに留学されており、すぐにお手紙(メールなどなかった時代です)を差し上げたところ、私の同僚の看護師さんが、黒崎先生とも一緒に働いていた方だとわかり(これも運命を感じましたが)、話がトントン拍子に進み黒崎先生と交代でリューデック先生のもとで働く機会を得ることができました。





留学していたハンブルク大学エッペンドルフ病院

 

 ハンブルク時代には月曜日から金曜日まで毎日下垂体腫瘍の患者さんの手術があり、連日手術室に朝一番で入って、目を皿のようにして技術を盗むべく、モニターの前でカメラを片手に仁王立ちしておりました。その日のうちに手術記録を書いて、ビデオの編集をしていたところ、手洗いを許可されました。はじめはドイツ人の患者さんの厚い大腿部の皮膚を切開し、かたい脂肪組織を採取する日々でしたが、皮膚の縫合を細い糸で形成外科医並みにきれいに行っていたところ評判がよく、今度は顕微鏡をのぞいていいよ、次には腫瘍を少しとっていいよ、というところまで許されるようになりました。

 こうしてリューデック先生との世界でも超一流の手術をみて、さあこれから自分でどんどん治療をやっていこうといろいろな病院に籍を置きましたが、しょせん民間病院では、下垂体の患者さんは大病院に逃げてしまいます。そこで次には南東北グループに籍を置きました。南東北ではやはり世界的な下垂体の権威である池田秀敏先生と仕事をさせていただきました。とにかく厳しい先生で、術前もしっかり勉強していかないと、回診や手術場で怒られたこともしばしばでした。池田先生の下では、週3回、一日3件も下垂体の手術が入っており、たくさんの症例の治療に当たらせていただきました。 

 池田先生の手術も、出血がほとんどなく、鞍内の操作も非常に丁寧で、うすいくも膜を破かずに癒着した腫瘍をそっと剥離していく方法は、リューデック先生の手術と大変似ておりました。結局、一流の技を極めると、似た手技になっていくものだと感心しました。

 こうして2人の超一流の先生方から学んだ知識、技術を自分なりに吸収し、模倣しながらも、あらたに自分自身が経験した知恵を加えて、少しでも患者さんたちの力になりたいと今日まで奮闘してきました。先人の築いた業績は、論文や教科書だけでは身につかない部分も多々あると実感しています。患者さんの治療に還元して、初めて役に立つのが医学だと実感しています。

関連記事

  • 関連記事はございません。